ブリア=サヴァラン『美味礼讃』(その7・レストラン)

映画「バベットの晩餐会」

だいぶ以前の映画ですが、「バベットの晩餐会」はとても印象深い作品でした。舞台はデンマークの寒村。パリ・コミューン(1871年)の騒乱を逃れてやってきたバベット。彼女はじつはパリの有名レストランのシェフだった。そのバベットが、あることがきっかけで、晩餐会を開くことになり、極めつけの豪華なフランス料理を準備するのです。

騒乱のパリを逃れてという点では、1789年に始まるフランス革命時代を連想させます。

ちなみに、「バベットの晩餐会」は、アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞しました。

レストランの成立

サヴァランの『美味礼讃』には「第28章 レストランについて」という章があり、レストランについてさまざまな側面から考察をめぐらせています。それによれば、1770年ごろ、「パリを訪れた外国人たちがおいしいご馳走にありつける手段はきわめて限られて」いて、「フランス料理の本当の味わいを知ることなくパリを去っていくしかなかった」(玉村編訳・下巻、170頁)というのです。

事態が動いたのはフランス革命期です。玉村さんの解説を拝借すれば、「フランス革命の進展とともに小金を持った中産ブルジョワ階級が出現」したこと、「革命による料理人の失職」、「集中する人口に追いつかない居住環境の整備」によって、「革命前には五〇軒もなかったパリのレストランの数は、一八二七年には約三〇〇〇軒に達した」(同、173頁)というのです。

王侯貴族の館で働いていたシェフが革命によって失職し、彼らがパリの街に出てレストランを開くことになったことが、レストラン発展の重要な要因だったということになります。私は、ここのところで、映画「バベットの晩餐会」を連想したのです。

サヴァラン『美味礼讃』が執筆されたのは1820年代前半ですから、サヴァランはパリでレストランが急増するのを目の当たりにしていたことになります。

そしてサヴァランは、「誠実できちんとした仕事をたしかな技術で続けていれば、かならず報われて財産を築くことができるという、新しい職業を創り出した」(171頁)男がいたのだと書いています。

レストラン考

サヴァラン『美味礼讃』の「レストランについて」の章には、

「レストランの成立」「レストランの利点」「店内の風景」「レストランの弊害」「レストラン間の競争」「プリ・フィクス(定食)の店」などが並んでいます。くり返しになりますが、サヴァランの『美味礼讃』は、単に「美食」についての本というにとどまらず、食についてじつに多面的に考察しているのです。それは、この本の「第27章 料理の哲学史」にもよくうかがえます。「哲学史」というとややこしそうですが、料理史といえばよいでしょうか。人類が火を使ってモノを食べるようになったところから話が始まりますが、ここではその「哲学史」の紹介は割愛しましょう。

サヴァランの時代、18世紀末からパリのレストランが急増したと上に書きました。時代が半世紀ほど後ろにずれますが、パリの有名レストランの一角を描いた絵があります。

マネの描いたレストラン

それは、エドゥアール・マネ(1832-83年)の「ラトゥイユ親父の店にて」(1879年)という作品です。「バベットの晩餐会」の舞台とさほど時期は隔たっていません。

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マネ「ラトゥイユ親父の店にて」
パブリック・ドメイン
トゥルネー美術館(ベルギー)蔵
1879年

 ラトゥイユ親父のレストランは、19世紀の初めから有名レストランだったとのこと。マネはそのレストランでの男女の語らいを描いていました。男の右手にはワイングラスがみえます。

ゴッホの描いたカフェ

マネの絵から10年ほど経った1888年、ゴッホはパリから南仏のアルルに移りました。そのアルルの街の一角にあった店の様子が描かれている作品があります。レストランではありませんし、アルルはパリから遠く離れた街ですが。

 

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ゴッホ
「夜のカフェ・テラス」(1888年)
パブリック・ドメイン
クレラー・ミュラー美術館(オランダ)蔵

ここに描かれた風景は、現代の様子とさほど違わないところまで来ています。

(藤尾 遼)


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